釣った魚をサバいて食べられますか?じゃあヤギは?

 11歳の時、川で釣った魚を自分でサバいた。釣りをするなら、それくらいできないといけないと思ってサバいてみたのだ。しかし、少し硬くなった魚の腹に包丁を入れ、内臓を引き出すと、私はその魚を食べる気をなくしていた。可哀相で、可哀相で、もう釣りをやめようと考えた。まだ、傷つきやすい少年時代の話だ。
 数年後、私は中学生になり、魚をサバくことに、抵抗を抱かなくなっていた。「魚や鶏をサバくことが残酷と考えるなら、肉も魚も食えねえじゃん。魚や鶏を殺すことが残酷なら、魚屋や肉屋は残酷な商売ということになるのかい?ばかいってんじゃないよ。そういうところだけ目をツブるってのは、きたねえよ。」それが、その当時の考えであった。「豚でも牛でもサバいてやるよ。」友だちにそんな風に、うそぶいたりもした。
 
 大学生の時、その考えを試される機会が巡ってきた。
 場所は中国。上海から列車で80時間ほど西にあるウルムチという町から、さらに、バスで数時間いったところにある、カザフ族の村だった。
 私は、パオ(モンゴルではゲルという)という羊の皮でつくったドーム型テントのようなところにやっかいになっていた。料理をするときの煙が室内にこもらないように、天井の真中に穴があいていて、寝る時に、その穴から満点の星を眺めることができた。標高が高いので少し寒いが、それ以外はいたって快適であった。
 
 事件は突然起こった。村の若者が、山の中腹にヤギを見つけた。パオの外が騒がしく、何事かと外に出ると、すでに村人達が、山の麓に集まっている。ヤギの足止めをするために、男が「メェェェェェェ」とヤギの鳴き声を真似る。驚いたことに、ヤギは仲間と思い、逃げ去ろうとする足を止め、振り向いて「メェェェェェ」と答えている。そのうちに、若者数人が、山を3方から回り込むように駆け上がっていく。その駆け上がっていく速さも、人間離れしている。断っておくが、その山は大した高さはないのだが、そんなに簡単に駆け上がれるような山ではない。低木がまばらに生える岩山で、斜度がかなりきつい。私は、その日の朝、朝焼けをながめるために、休み休み頂上を目指し、途中で疲れて挫折したのだ。
 わずか、15分ほどで、若者たちは、2匹のヤギを捕まえてきた。白いヤギと、黒いヤギだ。少しとぼけた顔の可愛い奴で、「白ヤギさんからお手紙ついた〜」という童謡を思い出す。どこかで飼われていたのが逃げたようで、あまり人間を怖がらない。頭を撫でると、無愛想な顔をして、よけもせずに撫でさせた。この小村でも幾頭かのヤギを飼っており、「その群れに入れるのだな。もうけたなあ。結構な財産なんだろうなぁ」というようなことを考えた。その瞬間、一人の男が腰のククリ(山刀)を引き抜き、ヤギの頚動脈を掻き切った!
 血が「シャー」という音を立てて吹き出た。ヤギはピクピクと最期の痙攣を続けていた。
 すぐに、見事な手際で解体が始まった。皮が剥がされ、内臓が出され、肉は肉屋でならんでいる、カレー用角切りの大きさに切り分けられた。角切りの山は、パオの数に等分され、それぞれのパオに平等に配られた。私が泊まるパオで、その一部始終が行われ、15分ほどで(動揺していて時間は正確ではないが)、ヤギ肉となったヤギが鍋で焼き始められた。
 目の前で、そうした作業が行われている間中、私は一つの問答を心の中で繰り返していた。
 「私は、この肉を食べられるのだろうか?」
 理屈では食べられる。食べるべきだとも思う。食べられるだろうとも思う。
 しかし、迂闊にも私は、そのヤギが山から連れられてきた時、「可愛い」と感じてしまったのだ。さらに、他のヤギと一緒に飼われるのだと勝手に想像してしまったのだ。(柵もないのに、逃げ出したのだから、また逃げ出すに決まっているではないか!)そのあまい想像を、私は恨んだ。捕まえたヤギを食べるのだと、考えていれば、これほど動揺しなかっただろうに。
 
 カザフの女に勧められ、肉を一切れ口に入れた。好奇心と不安が入り混じっていた。
 けれど、肉は、あっけないほど美味かった。
 臭みもなく、味付けもいい。この旅の間で一番美味い肉だった。2切れ、3切れと食べた。いくらでも食べられた。貴重な食材なだけに、それ以上は食べさせてもらえなかったので、カザフの女を恨んだほどだ。
 「俺は、このくらいは強かったんだ」
 それ以上でも以下でもない。
 「目の前で、可愛いいヤギを殺されても、それを美味いといって食える」
 そんなことを、この事件で確認した。
 自分がどの位強いかっていうのは、なかなか自分でもわからないものだ。ぎりぎりにならないと本当にはわからない。強がっていても、ヤクザに一発殴られると、あっけないほど簡単にビビったりする。そんな時は、簡単に正義を曲げてしまったりする。心の中で、ビビらないというシュミレーションをいくらできても、それは事実ではないのだ。そして、ある面で強くても、別のことでも強いとは限らないのだ。
 くりかえすが、私が、この事件で確認したことは、
 「目の前で殺されたヤギを美味いと思って食べれるくらい強い」
 ということだけだ。しかし、その事実に私は喜んだ。なぜなら、その確認は、私の大切にしている価値観の一つに、自分がきちんと属していると言う確認だったからである。

1ヶ月前、車窓から砂漠を走る馬や駱駝を見て「スゲ―」と言っていた私は、帰りには、馬や駱駝や水牛に遭うたびに、「うまそー!喰えるかなあ?」と言うようになっていた。

もどる